2017/4/3

「責任」
「責任」とはなんなのだろう
わたしはチームの責任者だ。
責任を常に負っていて、然るべき時には責任をとらなければならない。
でも、責任って何?
 
責任(せきにん、英: responsibility/liability)とは、元々は何かに
対して応答すること、応答する状態を意味しており、ある人の行為が
本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうこと
あるいはすでに起きたこと の原因が行為者にあると考えられる場合に、
そのある人は、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、
または道徳的な責任がある、とされる。
何かが起きた時、それに対して応答、対処する義務の事。
(wikipediaより抜粋)
 
理想的な代表者(社長)のあるべき言葉のひとつに
「責任は俺がとる」
がある。
こんなドラマのような言葉に傾倒している人が未だにいるらしい。
 
ここでの責任はとても短絡的なものだ。
生じた結果に「謝罪」し、
なんらかの「償い」をすることが一般的だ。
 
そういば、昔ある注文家具屋の親方がこんなことを言っていた。
「納得がいくまでつくる。使い手も作り手にとってもね。
納得がいかなければ納得いくまでつくる。」
つくる自由というものがそこには存在している。
 
私は責任者だ。
しかし、例えばスタッフが家具の作り方をミスして、
不出来なものを納品してしまったとする。
もちろん作り直しをするが、
裏切った期待は取り戻せない。
リテイクのために生じた時間の差は取り返せない。
 
責任とは義務を果たせなかった時に負う罰のことを指すわけではない。
が、社会的にはそのことばかりを求め本来あるべき解決に結びつかない。
responsibilityとは程遠い責任という解釈だ。
 
スタッフが、「わたしが責任持ってことを進めます」
とたまに口にしている。
彼にとって責任とは何を指しているのだろうとよく不安になる。
彼は本来の自由を持ち合わせているのだろうか。
表面的な「償い」に惑わされていないだろうか。
悪い結果が生じた場合、日本では職や立場を辞任することで
責任を取ると成す傾向がある。
本来の意味とは程遠い。
 
等価交換の社会・社会保障の充実した社会のなかで、
我々はなかなか自由を手にできない。
仮に不本意なものづくりをした時に、
スタッフが作り直したとして、
その時間は誰が担保するのだろう。
組織(会社)が負担するのであれば、
会社を通して顧客に負担を強いていることになる。
(蓄えた利益から捻出するのなら、それまでの顧客から
将来の利益から捻出するのなら、これからの顧客から)
では、個人の時間をつかう?
 
わたしは個人の所有物なんてないと考えている。
時間もお金も資産も。
制作でいただいた金銭は使い手(顧客)とあまりに密接で、
そこに自由のかけらもない。
 
話を戻し、仮にスタッフが個人の時間を有効利用し、
作り直したとして、その時間は大きな目で見て顧客が
負担しているに変わりない。
顧客の金銭的負担によって個人の時間を担保してもらっているのだから。
 
わたしは以前自身の家を建てる時に、とても責任の重いことに
気がついた。
それは作り手である大工に対してである。
彼らは誠意をもって制作にあたる。
わたしは彼らの人生に責任を負うのだ。
彼らの人生が今後も続くように、不過足なくその対価を払い、
良き実績をつくり、励みとしてもらう必要がある。
そうしないと大工としての人生は継続しない。
 
これは料理屋においても同様だ。
好みの料理屋においては責任をもって通い楽しむ。
 
自由から派生する「責任」とやらは本来楽しむべきことがらのひとつで、
負わせたり、なすりつけたり、誇ったりすべきことではない。
「責任持ってものごとに取り組む」なんて言葉も
やや軽率にうつる。
 
社会が成熟し皆が自由と責任を放棄した。
放棄なんてできるような代物でもないのに。
うまく自由だけをせしめようとするひともいる。
滑稽で興味深い。

> 田中英一のコトバ